2017-11

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君が代訴訟について

MIXIから転載

・君が代訴訟について

 この訴訟は教員側は非常に分が悪い。そもそも、東京都の日の丸君が代訴訟関連では、この教育委員会からの通達に対して、不起立を以て従わないことにたいする不利益処分は憲法19条、いわゆる思想・良心の自由に反しないという判例が多く出ている時点で、その処分を不当として、それに基づく再雇用拒否は違法であると訴えても、裁量の範囲と言われる蓋然性は高いだろう。まして上告審の最高裁においては。

 では、一度今回の判例から離れて考えてみる。そもそも、19条の思想・良心の自由とはどういうことだろうか。判例通説によれば、思想・良心とは、人格形成に関連のある活動を意味する。ただ、はたして、人格形成に関連のある活動とはどういうことだろうか?


 判例では、俵町中学内申書事件(最判昭63.7.15)では「校内において全共闘の運動を行ったこと」について内申書に記載されたことは、思想信条そのものの記載ではないとされ、謝罪広告事件(最大判昭31.7.4)においては、謝罪広告を掲載させることは、それが単に事実の真相、陳謝の意を表明するに留まる程度のものであれば違憲とはいえないとする。判例は比較的行政行為に対してはやや甘い態度をとってきたと自分は思う。


 ところで君が代の成立について、原告側は知らないのではないか、という指摘があるが成立過程によってそのものの価値が一意に決められてしまうと言うのならば、人はみな絶対的平等である(冗談)。古今和歌集の詠み人知らずの詩がどんなものかは不勉強なもので分からないが、それがどう扱われてきたか、という点に着目しそれがある人にとっては不快感を催すものであっても何ら不思議はない。高校時代、国語の先生が、この“君”は天皇を示しているのではないと仰ったとき、「だから?」と感じてしまったが、この「だから?」という感覚がわからない人が多くいるなら残念なことだと思うけれど。(ちなみに、自分はどう考えても左だが、高校の時完全に右の先生がいたけどその先生も国語だった。しかも面白い先生だった)


 “公務員だから”という文言を何度も目にしたが、採用において公務員だからこそ思想・良心に立ち入られない、ということはわかるだろうか。憲法の人権にかかわるほとんどの規定は私人間について直接的な効力を持たない(間接適応説)。会社の面接試験で、共産党員だから採用されないと言うことはあっても、国家公務員に共産党員ということで採用されない事例があれば、19条の思想・良心の自由,14条法の下の平等に違反するのは明確だ。だからこそ、この問題であたかも会社(それを一般社会と言う意味で使いながら)とそこに雇用された社員の関係で論じるのはかなりの瑕疵があるわけで。そこを“社会の常識だろw”の一言で片付けてしまおうという人がいるのはどうか。それだけに民主主義の常識はそれほど伝わりにくいのかもしれない。


 それとは別に“日本人だから”という言葉に自分は何の重みも感じない。日本人だから国旗を敬え、国歌を敬え、と言うことが私人間で行われるのは何の問題もない。しかしながら、国家を歌いなさいと、公権力が命じることで、そこに憲法の介入する余地がある。本来日本人であるかどうかはあまり問題ではない、少なくとも裁判上はそう。
 ちなみに、“日本人”というのはどこまで含むのだろうか。沖縄の人、アイヌの人、在日の人、部落の人。同じ“日本人”という枠組みに入れられながら、差別や抑圧された人たちもいる。いや、そもそも“日本人”と言う概念は流動的で、自分の考えに合わない人々は日本人ではないのかもしれない。中国残留孤児の問題然り。逆にノーベル賞を受賞された南部先生は国籍上はアメリカ人だけれども、文部科学省は日本人の枠に入れてしまった。日本の教育費を削り、研究者の居場所をなくし、海外に流出させるきっかけを作っていったのは、他ならぬ日本の政府と文科省であるはずだが。

 “愛国”と言う言葉について。愛しているということはどういうことか。例えば内心は面倒だけれども歌っておくか、という教員と、面倒だからと言って押しつけられるというのは、憲法の理念に合わないといって反対する教員のどちらが愛国的か。それが判断がつくものか。
 国の行政行為を称賛的視点で見るのはどうか。国の行政行為を批判的な視点で見るのはどうか。戦争に反対するのは。戦争に賛成するのは。票が欲しいから靖国に行く国会議員は。票が欲しいから永住外国人の地方選挙権を与える法案を出そうとする国会議員は。少なくとも、俺ルールで“愛国民・非国民”と定義されても、その言葉に自分は何の説得力を感じない。ただ、自分は愛国と呼ばれるくらいなら、非国民でいい。以下に再度ヘルマン・ゲーリングの言葉を述べておく。
 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 “政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です”
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 国家権力の行為を、愛国心が欠けるというロジックで(しかもそれを民間の人間が)肯定してしまうことにたいして、このナチス・ヒトラーの側近の言葉と重ね合わせてしまうのはそんなに不思議なことだろうか。


 最後に特に愛国者の方にお伺いしたいのだが公務員は99条憲法遵守義務を負う。では、行政行為と憲法の間に齟齬が生じ時ざるを得ない状況になったとき、あなたはいったいどうするというのか?


君が代 元教職員側が逆転敗訴
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1092031&media_id=2

卒業式などの君が代斉唱時に起立しなかったことを理由に、退職後の再雇用を拒否したのは違憲・違法として、東京都立高校の元教職員13人が都に計約7267万円の賠償を求めた訴訟の控訴審で、東京高裁は28日、計約2757万円の支払いを命じた1審判決を取り消し、請求を棄却する原告側逆転敗訴判決を言い渡した。稲田龍樹裁判長は「(再雇用するか決める)都の裁量権はかなりの程度に広い」と述べた。

 元教職員らは03、04年度の卒業式や記念式典で、「戦前の国家主義を想起させる」などとして君が代斉唱時に起立せず、これを理由に減給などの懲戒処分を受けた。05、06年の退職後に非常勤職員として再雇用を希望したが不合格となり、「不起立を理由に採用拒否するのは許されない」と主張した。

 高裁は、斉唱時の起立を指示した校長の職務命令自体は「元教職員らの歴史観や信条を直接的に否定する行為を命じるものではない」として合憲と判断。都の再雇用拒否について「元教職員らは適法な職務命令に違反して処分を受けており、低い評価を受けざるを得ない。不合格が裁量権の著しい乱用や逸脱に当たるとは言えない」と結論づけた。

 原告側は判決後に会見し上告の方針を表明した。原告の新井史子さん(64)は「非常に大きな落胆と憤りを感じている。5年間の再雇用を奪われないよう信念を曲げて起立している後輩に申し訳ない」と話した。【伊藤一郎】

 ◇当然のことと認識

 都教育庁の話 主張が認められたのは当然。今後とも採用選考は適正に実施していく。


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コメント

国際的な儀礼慣習

公けの場において、自国のものであれ、他国のものであれ、国旗掲揚、国歌斉唱がなされる場合は、起立、正対、脱帽するなどして礼を示すのが国際的な儀礼慣習となっております。

教師は、児童、生徒に礼儀や礼節を教えることも期待されていますから、ご本人の考え方ひとつで国際的な儀礼慣習を無視されては困るわけです。
(個人的に「割り算が嫌い」だからといって、割り算を教えない先生は処罰されることでしょう。)

彼ら(反対する教師たち)にとっては、礼節にしたがって起立することが、内心の自由や思想信条の自由を侵すシロモノらしいです。
個人的には、内心の自由や思想信条の自由はそんな安っぽいシロモノではないと信じています。

Re: 国際的な儀礼慣習

えまのんさん

はじめまして、そしておめでとうございます。この孤ブログという名の通り、孤独なブログとしてやってきた自分が、まさかコメントをいただけるとは。少し感慨に浸らしてください(笑)

以下コメントに対して。


> 公けの場において、自国のものであれ、他国のものであれ、国旗掲揚、国歌斉唱がなされる場合は、起立、正対、脱帽するなどして礼を示すのが国際的な儀礼慣習となっております。
> 教師は、児童、生徒に礼儀や礼節を教えることも期待されていますから、ご本人の考え方ひとつで国際的な儀礼慣習を無視されては困るわけです。
> (個人的に「割り算が嫌い」だからといって、割り算を教えない先生は処罰されることでしょう。)

 国際的な儀礼慣習がそうであり、それを教えることが要求されていると仮定したときに、ではそれが(生徒に対して指導することは置いておいたとして)一部の教員の思想・良心の自由をある程度制限し、権力的にそうたらしめることが妥当かどうか、という話です。それが儀礼慣習だから、そう指導されているから、ということだけでは自分には単純に結論を出せるとは思えません。
 

> 彼ら(反対する教師たち)にとっては、礼節にしたがって起立することが、内心の自由や思想信条の自由を侵すシロモノらしいです。
> 個人的には、内心の自由や思想信条の自由はそんな安っぽいシロモノではないと信じています。


 そうですね。内心の自由はともかく、思想良心の自由は制限されているのですよ。問題は、それが公共の福祉という名のもとにどこまで制限できるかです。
 自由権とは国家からの自由という意味であるとともに、生まれながらにして持つ権利です。特に内心の自由は絶対的保障であり、それは先進国においてはどの国でも保障されます。(一部を除く)安っぽいものではありません。ただし、それだけにどれが思想良心を侵害するかは慎重にならねばなりません。国旗に対して忠誠を誓うというのも同じことです。例えば(歴史に仮定を持ち込むのは卑怯ですが)現在のドイツがハーケンクロイツを掲げていたら、果たしてユダヤ人はその国旗に対して礼を示すことができるでしょうか。それを慣習だといって礼を示さないと言えるでしょうか。
 逆に果たして、日本の国旗が他者の思想・良心を極度に侵害する可能性がないと言えるでしょうか。


 ちなみに、数学教育を学んだ身としては、「割り算が嫌い」で割り算を教えない先生は大勢いると感じています。例えば、割り算には包含除と等分除がありますが(2種類の意味があるということで)その説明を理解し、教えようとしている人はあんまりいません。たいていあいまいなまま教えて、割り算ができない子どもを増やすだけです。1以下の少数で割ると何故元の数より大きくなるか説明できる先生もなかなかいません。
 掛け算の分野では、例えば“被乗数×乗数”と習うのに、何故か理科の世界では“乗数×被乗数”というふうに習います。でも、誰も何故か教えてくれないんですね。まさに教員の怠惰ですよ。

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