2017-08

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副題:発せられない言葉 中立という幻想

いのちの食べ方という映画があり、今年の2月ぐらいにビデオ屋でレンタルして見ることができた。

いのちの食べかた [DVD]いのちの食べかた [DVD]
(2008/11/29)
不明

商品詳細を見る


生まれて初めて、準新作でDVDを借りたが、とても衝撃的だったと言わざるを得ない内容だった。いや、正確に言うと衝撃的なのは内容ではなく伝え方だろう。何が描かれているといえば、

 農作業の一部、と作業員の食事

と、ただこれだけ。単調な農作業、それ自体ははっきり言って退屈だ。飽きるかもしれないし、菓子でもつまみたくなる気分になる。これが、農作業の羅列だったら自分はここまで評価しない。しかしながら、ポイントはその後にある。
 農作業の映像の後、作業を終えた作業員が食事を取り始める。それは、サンドイッチを外で食べるといった様子であったり、食堂で他の人と食べるということであったり。このときになってようやく気付くのである。
「あぁ、作物を育てる人でも食べるのだ」
 “いのち”であったものが、育てられ、刈り取られている。そこは知識としていくらでも知ることはできる。しかしながら、“いのち”であったものが、食べられている、それを作業員が食べている姿を見て、そこで初めて気づくのである。そのとき、右手につかんだ菓子が、気づく前とは全く違ったものとして感じられるのである。


「いのち、生き物を大切にしよう」

 なんてフレーズは聞き飽きたが、それでも実感としてそれが内的に蓄えられているだろうか?

 それよりも、菓子を食べながらでも、このくそつまらない映画を見た後での、口の中にある、まさに“いのち”は、見る前とは違った味になっているだろう。
 この映画の本質は、作物の育て方でも、オートメーション化した工場の様子でも、まして屠殺の残酷さでもなく、作業員の食事風景によって映し出される、ぼくらの姿なのである。




 付け加えるが、この映画の素晴らしいことの一つに、一言も解説足りうる言語が映像に入り込んでいないということがある。それは、言葉として語ることでそれは抽象化され、そのことによりコミュニケーションの道具であるはずの言語によって実感のないものになるという、言葉のパラドクス(つまり、先ほどのべた「いのち、生き物を大切にしよう」というフレーズが、実感とは程遠いものにあるということ)を避けているということだと思う。

 しかも、食べるという日常、作物を育てるという日常、それを撮る行為に偏りは見いだせない。しかしながら、映像の順番とタイミング、いわゆる演出を変えることで、ここまで意図をもった作品ができるのが驚きと言える。
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