2009-07

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ヘルマン・ゲーリングが残したもの

「国旗・国歌、嫌いなら辞めよ」=起立しない教員に-上田埼玉知事

これを見た感想


 「嫌い」をどう評価するか、ってのは難しい。(というか無理)
 「歌わない、起立しない」は簡単に評価できますが。


 「辞めてもいい」ということ、「辞めたらいい」ということ、「辞めた方がいい」ということ、「辞めよ」ということ、全部意味は違うけど、ぼくが言う場合より知事が言う場合の方が言葉の解釈の幅が狭まると思いますが。


国・国旗・国家を愛することの定義(評価)は?
つまり、誰が愛国者で、誰が非国民だとどう決めるのか。そこにグレーゾーンはあるのか。


公務員は、憲法遵守義務があるが、憲法と法律との間に整合性がつかめない場合(と判断した場合)どうするのか、どうすればいいのか。公務員の憲法解釈は政府の公式見解に則るべきか。それらの行動は、教員と一般公務員、公安系公務員で違うか。




具体的な話。(誰かのブログで書かれてた例を引用)

「人を殺してはいけないという命令→従わなくて殺す→処分される」

だから歌わない公務員は処罰されて当然であるという考え


ここでは、命令=君が代を歌え、従わない=歌わない、と対比させていた。
その例えを持ってくる根拠はあるのか。

ちなみに僕は
「人を殺せ→いやです→処分される」の構造の方があってると思うが。(根拠も一応考えてある)





ちなみに、愛国というロジックを一番うまくあらわしているのが次の文章だと思う。

「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」
(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)


そういうことだ。
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グラッスィズ

配布の日食観測グラスに欠陥=失明の恐れ、注意呼び掛け-科技機構


 壊れた日食グラスなら何の問題もないのだけれども。だって、壊れてるって認識があるから。というのは、一番危険なのは、直接目で見るよりは、黒い下敷きとか、サングラスとか、煤を付けたガラスとか、そういったもので見るのが一番怖い。


 眼には可視光線を感知する能力はあるが、それ以外を知覚することはできない。つまり、サングラスなどの可視光線の物理量を下げる(ここは語弊あり)ことをしただけでは、紫外線も赤外線も入ってくるわけで、それに眼は抵抗できない。しかも、そのまま見るよりは瞳孔が開くため、危険性は大である。

 でも、一般に売っているような安いやつでは他の電磁波を通してしまうから、しっかりある程度の高いやつを買わないといけない。


っていう情報をこの前聞いたので伝えておきます(笑)

副題:発せられない言葉 中立という幻想

いのちの食べ方という映画があり、今年の2月ぐらいにビデオ屋でレンタルして見ることができた。

いのちの食べかた [DVD]いのちの食べかた [DVD]
(2008/11/29)
不明

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生まれて初めて、準新作でDVDを借りたが、とても衝撃的だったと言わざるを得ない内容だった。いや、正確に言うと衝撃的なのは内容ではなく伝え方だろう。何が描かれているといえば、

 農作業の一部、と作業員の食事

と、ただこれだけ。単調な農作業、それ自体ははっきり言って退屈だ。飽きるかもしれないし、菓子でもつまみたくなる気分になる。これが、農作業の羅列だったら自分はここまで評価しない。しかしながら、ポイントはその後にある。
 農作業の映像の後、作業を終えた作業員が食事を取り始める。それは、サンドイッチを外で食べるといった様子であったり、食堂で他の人と食べるということであったり。このときになってようやく気付くのである。
「あぁ、作物を育てる人でも食べるのだ」
 “いのち”であったものが、育てられ、刈り取られている。そこは知識としていくらでも知ることはできる。しかしながら、“いのち”であったものが、食べられている、それを作業員が食べている姿を見て、そこで初めて気づくのである。そのとき、右手につかんだ菓子が、気づく前とは全く違ったものとして感じられるのである。


「いのち、生き物を大切にしよう」

 なんてフレーズは聞き飽きたが、それでも実感としてそれが内的に蓄えられているだろうか?

 それよりも、菓子を食べながらでも、このくそつまらない映画を見た後での、口の中にある、まさに“いのち”は、見る前とは違った味になっているだろう。
 この映画の本質は、作物の育て方でも、オートメーション化した工場の様子でも、まして屠殺の残酷さでもなく、作業員の食事風景によって映し出される、ぼくらの姿なのである。




 付け加えるが、この映画の素晴らしいことの一つに、一言も解説足りうる言語が映像に入り込んでいないということがある。それは、言葉として語ることでそれは抽象化され、そのことによりコミュニケーションの道具であるはずの言語によって実感のないものになるという、言葉のパラドクス(つまり、先ほどのべた「いのち、生き物を大切にしよう」というフレーズが、実感とは程遠いものにあるということ)を避けているということだと思う。

 しかも、食べるという日常、作物を育てるという日常、それを撮る行為に偏りは見いだせない。しかしながら、映像の順番とタイミング、いわゆる演出を変えることで、ここまで意図をもった作品ができるのが驚きと言える。

なんだろうねぇ

幸福実現党の選挙カーを尻目に、抜き去ったところ、なぜかついてくる奴ら。

どうも、自転車と選挙カーの走るペースは同じようだと、気づかされた。つまり、自転車で遊説ってのとスピード的には変わんないのね。


 で、やっぱり疑問なんだけれど、「北朝鮮の脅威から日本を守るために、9条を改正します」っていうのを言ってるのは感情的には納得できる(余地はある)けれども、やっぱ納得できないんだよなぁ…
 9条を改正しないから攻撃されるかどうかは置いておいて、9条を改正したら攻撃されないか、と言ったらそうじゃないでしょう?9条を変えなくたって、自衛のための戦争はできるはずだし(ともかく、政府の解釈はそう)9条を変えるという行為そのものが、北朝鮮に対する圧力になって緊張が高まるだろうし。そんな、冷たい戦争を望みたいのかしら? と思うのですが。

 ただ、日本の過去の戦争を自衛戦争としたい人たちほど、経済制裁、武力制裁を強くしたがるのはなんでだろう?彼らたちの意見に沿えば、そうなった後北朝鮮が日本に攻撃を仕掛けても、自衛のための戦争を行った、と解釈するのが妥当じゃないかと考えるべきじゃないだろうか…

 でもそれがこの人たちや、この人たちにできるとは思えないんだよなぁ…

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いろいろ述べていきますが、
大したことは言いませんし、
間違ったこともいいますし、
そこらへんは大目に見てください。

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