2017-08

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表現が与える影響…とか言ってみたり

REDという漫画を借りた。

レッド(1) (KCデラックス)レッド(1) (KCデラックス)
(2007/09/21)
山本 直樹

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最近東京都で非実在青少年の話題が出たが、それと合わせて偶然にも読んだのがこれ。

 時代は1969~72年に起きたあさま山荘事件に至るまでの、あの学年闘争の終焉を描いた作品で、以前から山本直樹はそりが合わないと思っていたけれど、この作品はすっきりした、というか驚いた。この作品では、闘争の中で死んでいく15人に、それぞれ死ぬ順番が記されており、それが異様な存在感を醸し出している。メンバーの中での思想や行動がそれぞれの登場人物の生死にどう影響を与えているのか、それが登場人物に記された番号と、さらに偶に記される死や逮捕までの時間、それによって本当に引き立たされるのだ。
 だから続きが非常に気になって仕方がない。

 ところでこの中の登場人物は、総じて優秀な人が多い。モデルとなった日本共産党革命左派神奈川県委員会はそもそも横浜国立の出身者がメインであるし、赤軍派もそうだ。というか、そもそもあの頃安保改正反対やマルクス主義を主張していた人は総じて優秀なイメージがある。“インテリぶった左翼”というのを誰が言っていたのか忘れたけれど、まさにそんな感じだったのではないか。

 彼らは、周知の通り暴力の集団となっていくのだけれども、それを支えたのが社会主義思想、共産主義思想なのは間違いない。漫画の中にも毛沢東全集を読んで、ベースに戻ってきたというようなシーンがいくらかあるが、彼らは活字によって先鋭化し、言葉によって思想を狭め、暴力によって孤立していく。単なる文字の羅列が、世紀の大事件につながるというのは、歴史的にあり得るということなのだろう。


 で、今の話だ。例の条例は今年度中の採決は見送られたようだ。性的な表現が青少年に悪い影響を与えるというのは、ありそうだし、そう危惧する理由もよくわかる。ただ、青少年に悪い影響を与えないものというのは果たしてあるのだろうか。小説ならいいのだろうか、教科書ならいいのだろうか、古い映画ならいいのだろうか。自分にはそこの判断がいまいち付かない。もちろん相対化して終わりというのは一番避けたいのだけれど。


 にしても“文字”に感化されて犯罪行為を起こす者もいれば、ロリコン雑誌を片手に考えさせる文章をかける人物を知っている。もし、単なる裸の表現が悪い影響を与えるというのならば、それは表現そのものがそういった悪い(もちろんこれは主観的なものであるし)面をもつとともに、それの良い点を見いだせないという欠点もある。悪いものからいいものを導き出せるようにする、それは難しいことだけれど、教育によって賄えるものなのではないか、と自分は思う。それを実践したのが何を隠そう東京都知事である石原慎太郎であり、彼は「子どもに女の裸を隠すな」と言ったのだ。(良純は小学校入学のときにヌードのトランプをもらっていたと言っていた)もちろん、都知事の場合は『俺が教育しているならば』という条件付きなのだろうと思うけれど。


 自分は、個人的には変態なので例えば規制の対象となるような成年コミックはよく買う。詳しくは知らないけれど。
 だから本来は盛大に反対する立場にあるべきなんだと思うけれども、表現の自由や青少年に対する悪い影響という点ではなくて、女性に対する差別的表現という視点で見ると自分は反論するすでがない。こまったね…。

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追記:途中教育によって賄えると書いたけども、もちろん自分の中で教育であっても賄えない部分があるということは当たり前な話で、そんな教育万全論に与はしない。表現というものを、安易に区別することはできないということ。
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土屋氏の宣伝

西尾幹二ってどこ行ってるんだと最近気になってた(というか気にし始めたというのが正しい)けど、「WiLL」に出てましたね。そういえば前々回のブログに書いたつっちーも、「正論」と「WiLL」に小論を書いてました。WiLLの方は読む気はさらさらないんですが、ブログの方には一応突っ込みを入れときましょうか。


WiLLに「小沢独裁を内部告発する」発表!!
本日発売の、WiLLに小論を書きました。
産経、読売には大きな広告が出ていましたので、気付かれた方も多いと思います。
内容は、是非、WiLLでお読みください。

それにしても、相当数のサヨクがいる中で、正々堂々言論で勝負しようと言う御仁はいませんね。
12年間、反論があったのは一人。
それも情けないことに原稿を政調会職員に書いてもらったものです。

今日、平沼代議士の話をお聞きしましたが、私と同じ見解。ヒトラー政権奪取と同じ過程をこの国はたどっている。
と言うとまた、党則違反でなんのかんのと言って来そうだが、政権の論評をして何が悪い。小泉総理は「自民党をぶっこうわす」と言って選挙に勝利した。
小沢一郎とヒトラーと目次にあるが、これなどは編集が付けたもので、文句があるのならそちらにどうぞ。

全国学力テストもおじゃん。この国の教育 どうするの?九九も出来ない高校生。通分も出来ない理系の学生。バカの大量生産をして国はどうなる。
その表現に文句があるのなら、言論で勝負しようではないか。
武道でもいいけれど、こちらはクレー射撃だから、勝負にならんでしょう。

とにかく、WiLLをお願いします。
2009年11月26日(木) No.461


※強調は引用者による

 相当数のサヨクがいる中で息を吐いていらっしゃる土屋都議ですが非常に面白いですよね。正々堂々勝負しようとする気は非常にわかるのですが、この前の都知事選は本当に正々堂々主張したから当選できたのでしょうか。自分にはヒトラー政権奪取と同じ過程に乗っかって当選したような気もするのですが(都議選での民主の躍進は少なくともつっちーにとってマイナスには動かなかったでしょう)。それに“編集が付けたから”などと述べておる割に、その前で平沼と民主党とナチを同一視する発言をしているあたり、よく分かりません。自分はそれを支持するけど、俺の責任じゃないよということですか、そうですか。

 全国学力テストについてはそこまで金をかけてやる必要があるのか、という点に絞られるでしょう。国としての傾向をはかりたいのであれば、抽出調査で十分です。費用も10分の一くらいになり、さらに分析も楽です。というか、全員調査するメリットって点数のみを公表することを前提としているわけでしょう?どう間違えたか、他の教科との関連性はどうか、学習環境はどうか、所得はどうかなど様々な独立変数が絡んできてるわけで、点数のみで比較してもどうしようもないですよ。むしろ、抽出にして細かく聞く方がいい。以前の抽出式の調査では、個人面接などもっと学力の根源に迫るような調査も用意していたわけです。100万近くのデータを、つっちーをはじめテスト支持者が教育に生かせるよう分析してくれるなら、自分がある程度賛成にまわってもいいと思うかも知れない(笑)ともかく、今のままでは教育にとってほとんどプラスにはならないです。

 ところで、全部読んでみてこの文章何が言いたいか分かりますか?自分にはこの文章の論理性がよくつかめません。以下自分なりに噛み砕いてみました。

WiLLで出るよ
サヨクいっぱいだぜ
民主党はナチみたい
そんぐらい言ってもいいだろ
でも記事は編集がかいたからおれの責任じゃねぇよ
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学力テスト廃止かよ
馬鹿が増えるぜ
俺の言いたいことに文句あるやつは前に出ろよ
そんな根性あるやついないけどな
WiLLででるからよろしく


特に点線の部分のつながりが意味不明。あえてもっと都合のいいように解釈するなら、

WiLLで出るよ(宣伝)
言いたいこと書いといたから


この国の教育 どうするの?九九も出来ない高校生。通分も出来ない理系の学生。論理的文章も書けない都議。バカの大量生産をして国はどうなる。
 
 いまだだ論理的文章も書けない都議がいてもこの国はやってきて行けてますからそんなに心配することもないと思います(笑)。

土屋氏の憂鬱

http://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/cgi-bin/sf2_diary/sf2_diary/

最後まで徹底的に闘うぞ!!
下記の文書は、党からの離党勧告への反論書。
今日の記者会見で明らかにし、党にも発送した。
資料などまでは、ここで物理的に書けないが、私の主張は大体ご理解いただけると思う。

要は、趣旨が分からない、意味不明の聴聞には応じたくても応じられないので、それを整理して明らかにして欲しい。
内容的なものが整えられれば、聴聞には応じると言っている。

今回の「離党勧告」はそれらの手続きを飛び越えているものであるから、認められない。

まあ、このような内容だ。
当然でしょう。

もし、仮にその「法理」を無視したら。それは当然法廷闘争になるでしょう。こちらは望んではいませんけれど。


強調は引用者による


法廷闘争になったところで、負けるのはつっちーなんだろうよ。というかやって恥かいてくれ。

ヘルマン・ゲーリングが残したもの

「国旗・国歌、嫌いなら辞めよ」=起立しない教員に-上田埼玉知事

これを見た感想


 「嫌い」をどう評価するか、ってのは難しい。(というか無理)
 「歌わない、起立しない」は簡単に評価できますが。


 「辞めてもいい」ということ、「辞めたらいい」ということ、「辞めた方がいい」ということ、「辞めよ」ということ、全部意味は違うけど、ぼくが言う場合より知事が言う場合の方が言葉の解釈の幅が狭まると思いますが。


国・国旗・国家を愛することの定義(評価)は?
つまり、誰が愛国者で、誰が非国民だとどう決めるのか。そこにグレーゾーンはあるのか。


公務員は、憲法遵守義務があるが、憲法と法律との間に整合性がつかめない場合(と判断した場合)どうするのか、どうすればいいのか。公務員の憲法解釈は政府の公式見解に則るべきか。それらの行動は、教員と一般公務員、公安系公務員で違うか。




具体的な話。(誰かのブログで書かれてた例を引用)

「人を殺してはいけないという命令→従わなくて殺す→処分される」

だから歌わない公務員は処罰されて当然であるという考え


ここでは、命令=君が代を歌え、従わない=歌わない、と対比させていた。
その例えを持ってくる根拠はあるのか。

ちなみに僕は
「人を殺せ→いやです→処分される」の構造の方があってると思うが。(根拠も一応考えてある)





ちなみに、愛国というロジックを一番うまくあらわしているのが次の文章だと思う。

「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」
(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)


そういうことだ。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

その眼でおまえはいったい何を見ているというのか

先週の土曜日自分が短気である、ということを久々に感じた。うまく書けないので、現場は物語風に説明するぜ。

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 仲間内で飲み会があって、関東の大きな駅の待ち合わせ場所に集合したときのこと。その日は土曜の夜6時。待ち合わせの目印になるモニュメントの周りは多くの人だかりができていて……。
 でそこに、白いステッキを持った老人が現れる。点字ブロックにステッキを添わせながらゆっくりと。いつしか、老人は人だかりの中に入っていった。ステッキが他人の靴をなでる。1回、2回と。老人は点字ブロックから右に2歩ずれ、再び歩き出した。
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 何か、これを見てたとき一瞬で血が沸騰するのを感じた。自分は点字ブロックの道を遮っていた若い人に「道をあけて」と肩をたたき、必死な目で訴えたけれども、彼らにとって道をふさいでいたという実感は全くなく、自分に対し「なんだこいつ」という思いしかないはずだ。
 結局、飲み会が始まるくらいまで怒りがおさまらなかったのだけれども、その怒りは「誰も気付かないのか」というものと「結局お前も、あの老人のその後を無視しただろう」ということ、「4年以上この駅を使っていて気付いたのは今かよ」ということに対するものだった。平均的他人以上に多くの障害者たちと接して来た自分、さらに「弱者のためを」とか主張してきた自分にとって、自分自身が差別的行動をしてしまったと感じたことは明らかな自己矛盾で、痛すぎる経験。でも当事者やその現場にいなければ、想像なんてできるわけもなく、実感が湧く段階にすらない。こうして、差別に反対する人間でさえも(もちろん、自分はそうありたいと思いつつ、自分の中の差別意識の存在と、それと戦う必要性も感じていたが)、差別を無意識に見ないでいるということの表れか。

Mukkeさんが[歴史]史実を想像することならできるけど,実感なんて無理

…TVで大きなビルに飛行機が突っ込んでいた。衝撃映像特集でもやっているのかと思ったら,いつの間にかそれがとんでもない大事件だということになっていて(お恥ずかしいことに,厨房当時のぼくはWTCなんて知らなかった),気が付けばアフガンやイラクで戦争をやっていた。多分ぼくが本当に「実感」を持って歴史を語ることができるのはこれ以降のことだろう。勿論それにしても,本当にアフガンやイラクに行ったわけじゃないけれど,少なくとも,同時代を生きた,とは言える。けれど先の大戦は,満州事変や日中戦争や太平洋戦争は,ぼくにとっては70年近く昔の歴史上の出来事で,到底それについて「実感」を持つことはできそうにない。


とおっしゃっているけれども、(あの時の自分である)厨房にとって「映画みたいだ」という実感はあっても、これから起こるであろう戦争であったり、大勢の人が亡くなったということに対する実感はなく、不謹慎だがもし今
「あれは世界を驚かすためのアメリカの演出なんだよ、人も死んでないし、建物も壊れてない」
という事実が発見されたとしても、当事者ではない実感しか湧かず、それは9.11が起こった実感と当事者でないという大きな点においてあまり変わりがない。

それに、9.11以降の、大塚英志に言わせればハリウッドの脚本的なアメリカの戦争であったり、自己責任と言われた高遠さんたち人質事件(*1)であったりの、自分の中での実感を通り越したある意味電波でファンタジーな物語を、アメリカや自己責任者論者が歴史的に紡いでいるのを”実感”したとき、彼らの“実感”なんてものは存在していないと感じたが(嘲笑的に)、今となっては自分自身の“実感”に対しても疑問符ができてしまっている。それは、実感ではなく幻想ではないかという。

 なんというか自分の実感が信じられないという哲学か心理学的な話になってしまったけれども、知識を、感情のない実感と定義すると(できるかどうかはともかく)実感がなくても史実は語れるのではないかという実感はある。…よくわからないなぁ、自分(*2)。


*1実は彼らが日本人であるという現実を実感として得ないがために、彼らを非国民で平和ボケと避難したのだけれども、現実を実感として得ようとしないのなら、そういった人こそまさに“平和ボケ”している。

*2さすがに、すいません。自分自身もわからなくなってきた…。いい加減社会学の勉強と哲学の勉強をしたいのですが、初歩の参考書があれば教えてください

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いろいろ述べていきますが、
大したことは言いませんし、
間違ったこともいいますし、
そこらへんは大目に見てください。

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